6月4日礼拝メッセージ 「『聖なる国民』として生きる」 三吉小祈牧師
聖書:出エジプト19章3~8節、使徒2章29~36節
三位一体主日です。父・子・聖霊なる神を記念する日。神さまは、わたしたち人間のために、様々な姿をとって現れて下さる。そのようにして、神さまは、わたしたちに向き合い、わたしたちを導き、守って下さる。その愛と恵みと御力とを記念し、今日の三位一体主日を守っています。
その神さまの聖なる力は、いつでもどんなときでも働いています。この悲しいことばかりの世界の中で、どこにそのような力が働いているのか、と思う時があります。けれど確かにあるのです。わたしたちが信じて、「御国が来ますように」と願い、働くとき、わたしたちの内に神さまの力が働いています。わたしたちこそが、神さまの御業を運ぶ器。わたしたちこそが神さまの愛を喜び分かち合うための道具なのです。
いつでも、この世界は神さまの愛を必要としています。一昨日の祈祷会で、参加者が「この教会は、わたしたちの教会ではない、神さまを必要としている人たちの教会だ」とそのように祈ってくださいました。「その人たちに、神さまのみ言葉を届けるために、為すべきことを為さしめてください」、そのように祈られました。まさにそのとおりで、わたしたち自身もまた、御言葉を必要とし、伝えられ、心にしっかりと受け止めさせていただき、救われました。でもそこで終わりではない。わたしたちは誰もが、この教会の外へと召されています。それをどのように行っていけばいいか、道筋はなお霧のように霞んでいますけれど、しかし、わたしたちが望めば、神さまが道を開いてくださいます。
出エジプト記からお読みいただきました。エジプトの奴隷状態から、モーセに導かれて脱出したイスラエルの民。3か月の荒れ野の旅を経て、シナイ山のふもとに着いた。そのことを伝える個所です。この3か月の間、水や食料に事欠くような苦しい状況を、出エジプト記は伝えています。この時、モーセに訴えた民の言葉を、聖書は「不平を言った」と伝えています。けれど単なる不平不満と片づけていいのか、と少し疑問に思います。水や食べ物がない、ということは命に関わることです。このままでは死んでしまう。となれば、ここまで自分たちを導いてきたモーセに訴えるのは当然のことではないでしょうか。モーセだけではない、民もまた、自由のために葛藤し、闘ってきたのです。そのような闘いを、神さまは支えてくださり、導いてくださった。モーセとイスラエルの民の闘いを十分に受け止めてくださったと言える。
それが、シナイ山で、モーセが受け取って来た神さまの言葉に現れていると思います。「今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。」「私にとって祭司の王国、聖なる国民となる」
必死で歩んできた民に、一つの契約を与え、宝の民としてくださる。そうして祭司として、聖なる国民として、一人一人が歩むようになると告げられた。単なる国ではない。祭司の王国。祭司とは、神さまと民衆の間に立って、神さまを賛美し、いけにえを捧げ、執り成しの祈りをする役割のことです。その役割をイスラエルの民一人一人が担うということ。後のサムエル記等で言われる、王が支配する王国とは、次元の異なるものです。
ここで言われる「祭司の王国」「聖なる国民」とは、王の支配するものではなく、神さまが主権者であること、民は一人一人、祭司として、世界と神さまとの間をとりなす役割を果たすのです。苦しみ、悲しみ、誤ったことの多いこの世界の中で、神さまの契約を守り、聖なるものとなることで、それを為す。この世界を、平和へと、神さまの国へと執り成し導いていく、大切な役割が言われているように思います。
その守るべき契約とは、神さまを唯一の神とせよ、殺すなかれ、奪うなかれ、偽証するなかれ、と教えたあの十戒です(20章2~17節)。シンプルな、けれど、多くの罪の中で守ることが困難になっている現実がある中で、これを守り、生きていく。そうすることで、民は執り成しの民として、大切な役割を果たす者として歩んでいくのだ、とそう告げられています。
そのことをモーセから伝え聞いた民ははっきりと応答します。「私たちは、主が語られたことをすべて行います」と。ここまで不思議な仕方で民を導いてくださった神さま。困難な道のりであったけれど、確かに力強く、自分たちの命を守り、ここまで導いてくださった。この神さまであれば、自分達も生きていける。ただ生き延びる事だけでなく、よりよく、平和と愛をもって生きていけると確信できる。そのように考えて、応答したのです。
使徒言行録から合わせてお読みいただきました。ペンテコステの出来事の直後、いぶかるエルサレムの人たちを前に、ペトロが語り掛けた箇所です。聖霊の力を豊かに受けて、様々な言葉で語りだした。神さまの御業。イエスさまのこと。それは決して妄想ではないことを、根拠のないものではないことをペトロは聖書を通して証します。その際、引用されたのが、ダビデの言葉、詩編の歌です。
それは、イスラエル最大の王と謳われたダビデでさえ、神さまの前には僕の一人に過ぎない、ということを表しています。もっと言えば、ダビデの王国は必ずしも神さまのみ旨をそのまま映したものではなかったということを言っています。神さまのみ旨はあくまで、互いにとりなし合う「祭司の王国」であり、イエスさまにこそ、それが実現した、とペトロは告げたのです。イエスさまこそ、ダビデに勝る「メシア」「キリスト」だと、自分達はその証人だと高らかに宣言しました。
貧しく、武器も持たず、ただ神さまの御力のみを持って働かれたイエス。その歩みは多くの人を癒し、苦しみから解放しました。武器をもって多くの人を打倒したダビデとは、正反対の在り方です。この一見弱い、何も持たない方こそ、多くの物をもっておられる。その豊かな恵みと力は、私たちの上に注がれた。それを分かち合いたい、とペトロたちは願い、多くの人に語り掛けたのです。神さまの聖霊がなさしめたことです。
聖なる神は、今もわたしたちを「聖なる国民」として招いてくださっています。その招きに、答える者でありたい。少しでも、御業に関わるものとなりたい。主が導いてくださいます。