「主は生きておられる」 イザヤ書54章9~14節;ルカ福音書24章1~12節
聖書の中には、これが本当にあったことなのかと思うような、不思議な出来事がたくさん語られています。イエスさまの行った奇跡の業、また今日のイースターの出来事などは、その最たるものでしょう。また、死をも恐れないほどの強い信仰を持った人々、神さまに対して深い悔い改めの思いを表した人も登場します。そういった人々についても、こんな立派な人が本当にいたの?と疑いの眼差しを向けてしまいます。
残念ながら、こうした記述が本当に歴史的な事実であったかどうか、確認する術はありません。けれど、事実として確認できる事柄はあります。聖書の背景になっている2千年前の世界が、庶民にとってどれだけ過酷だったか、という事実です。繰り返しお話していますように、当時はローマ帝国とエルサレム神殿からの厳しい支配がありました。その支配下で人々は困窮し、中には強盗という犯罪に手を染めなくてはならない人たちがいた。これは事実として確認できる事柄です。
そういった事実、現実がある中で、イエスという人が語る言葉、大きな業に救われた人は大勢いたであろうことは、想像に固くありません。病を癒し、重荷をおろし、安らぐ場所を与えてくださる方がいた。その救いを求めていた人々がいた。これも事実だろうと思います。そこから考えると、もう一度生き直したいと願い、そして救われ、信じた人が、この時代、大勢いたに違いないのです。確認はできません。けれど確認できる事実からそのように考えることができます。
大切なことは、その事実の中に、わたしたち自身の姿を重ね合わせることができるか、ということです。2千年前の過酷な現実は、今の世界でも続いています。今の世界も、イエスさまが出会った群衆たちのように、弟子たちのように、生き辛さを抱え、困難を抱えている人たちが大勢います。
わたしたちもまたそうです。それぞれの重荷、それぞれの課題がある。そのため、戦争や貧困、社会的搾取など、もっと大きな課題、もっと大きな重荷を負っている人たちを見つめることしかできていない。十字架まで付き従ってきたけれど、それを遠くから見つめることしかできなかった女性たちのように。けれど、女性たちは見つめるだけでは終わらなかったのです。彼女たちはアリマタヤのヨセフと共に、イエスさまを埋葬することへと進んでいきました。おそらく、犯罪人として処刑された人を埋葬することは多くの危険を伴ったことでしょう。しかし、彼女たちは動きました。このままでは終わらせたくなかったからです。死んでもなお、イエスさまを覚え続けていこうと、決意したのです。この人は犯罪者ではない。わたしたちを愛し、救ってくださった方だ――そういう方としてわたしたちは覚えていくのだと決めたのです。それは、イエスさまを殺したこの世の力に対する、小さな抵抗でした。小さな抵抗でも大きなことでした。その抵抗をなさしめたのは、イエスさまの愛の力です。彼女たちは、彼女たちが気付かぬうちに復活の力に、既に満たされていたのです。
だからこそ、彼女たちは復活の出来事に出会うことができたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない」――「ここにはいない」墓の中にはいない。あの方は生きておられる!彼女たちはそのメッセージの最初の証人となって、使徒たちと皆にそのことを告げました。しかし、聞いた人たちのうち、特に使徒たち、11人の弟子たちは信じなかったとあります。この話が馬鹿げたこと=たわ言、事実じゃないと思われて、信じなかった。
確かに「復活」の物語は馬鹿げたことに聞こえます。たわ言に聞こえます。。現実的ではないから。現実には起こりえないから。彼らからすれば、イエスさまを墓に埋葬すること自体、馬鹿なことだったのかもしれません。そんなことをして何になる。イエスさまは犯罪者として死んでしまった。もうすべてがおしまいなんだ。どうにかしてこの先生きていく方法考えなきゃ。死んだ人のことを思っている時間はない……
この世の力、人の自由を奪い支配する力は、死者を忘れ去ろうとするところから忍び寄ってきます。何がその人を死なせてしまったのか…戦争、災害、様々な困難の犠牲者を忘れるところ、そこから立ち上がり、共に生きていく力も失われます。その人がどういう人だったか、どういう風に生き、どのように愛し、歩んできたか…それを受け継ぐことなく忘れ去ろうとするとき、つながりが、愛が奪われます。
イエスさまを忘れようとすることは、生き延びる事ではなく、死につながります。イエスさまの復活を馬鹿げたこととすることは、イエスさまの愛を失い、共に生きる喜びを失うことです。
だからこそ、イエスさまの復活は馬鹿げたことではないのです。馬鹿げたこととしてはならないのです。なぜなら現にこうして、イエスさまを覚え、イエスさまの愛を行って生きていこうとする人々がいるから。その人たちの中に、現実にイエスさまが生きているからです。わたしたち教会は、イエスさまの命に生きる人たち、その人たちに繋がっている群れです。わたしたちは、両親から、祖父母から、また信仰の友から、このことを聞いて、イエスさまと出会ってきました。イエスさまの愛と力とを感じて生きてきました。イエスさまに救われて生きてきました。それは誰にも否定しえない事実です。
イザヤ書54章は語ります。神さまの平和の契約が生きていること、神さまの義がわたしたちを立つことのできる者とすること、様々な罪が重荷がある中で、神さまが立たせてくださることを。これらもまた、現実に起こっていることです。だから「虐げ」はわたしたちにふさわしくないのです。「恐れ」もまた、わたしたちに必要ありません。もはやそれが近づくことはない、と約束されています。神さまからは、「虐げ」も「畏れ」も生じず、神さまが望まれるのは、わたしたちが生きることだけ、わたしたちに愛が満たされるようになることだけだと。そう語られている。のです
まさに主イエスの復活がそのことを示しています。主は生きておられる。そのことは事実であり、わたしたちの現実です。この方から、わたしたちは命を得、愛することを知り、力を与えられたのです。わたしたちはもはや、罪におびえる必要はない。罪あるからと言って、虐げる者に身をゆだねることもしなくていい。わたしたちは確かに弱い者、罪ある者、しかし神さまがイエス・キリストの義によってわたしたちをここに立たせてくださり、命と愛を証ししてくださっているのです。
わたしたちにとって、この復活は何よりの真実であり、事実です。そのことを復活の主によって証ししていきたい。わたしたちを生かされた主に、これからもより頼みつつ、歩んでいきたいと願います。