5月21日(日)復活節第7・昇天後主日

「再臨のキリスト」
カトリック幟町教会 世界平和記念聖堂 | Memorial Cathedral for World Peace (catholic.hiroshima.jp)

5月21日(日)礼拝メッセージ 「天と地の狭間に生きる」三吉小祈牧師
聖書:使徒言行録1章12~26節、マタイによる福音書28章16~20節

 画像は広島市にある「世界平和記念聖堂」の正面に描かれているキリスト像です。聖堂の神父さんの説明によれば「再臨のキリスト」を表しているとのこと。カトリックの聖堂では通常、十字架に架けられた苦難のキリスト像が掲げられる。このように、この世の終わりの時に来られるキリストを掲げるところはめずらしい、とのことでした。世界平和記念聖堂は、原爆被災した神父が、原爆犠牲者の慰霊のため、また世界平和の祈りを込めて発案し、建てられたものです。その祈りが成る日――神さまの御国が来る日は必ず来る。その希望が、この「再臨のキリスト」に表されているのだと。そうして説明してくださった神父さんは、この像は、「ヒロシマ」を覚えるのに最もふさわしい像だと思うと、そう仰いました。
 天から地上を引き裂くように貫く金の光が描かれています。キリストが稲妻のように突如として世に来られる、その再臨の出来事の予測不可能性と神の偉大な力を表しているように思います。けれどその、天を引き裂くように来られたイエスさまの表情は優しいものがある。とても地上を厳しく裁くために来られたようには見えない。少なくともわたしにはそう見えます。本当にこの方は、この地上の苦しみと、天にあってもつながっていてくださったのだと、そう思うことができるイメージになっているような、そんな気がするんですね。
 それを一番に表しているように思うのが、天からつんざく金の光と重なって描かれる、赤い線。イエスのわき腹からそれが出ています。明らかにイエスさまが十字架で受けた傷を表している。天からの閃光と流れる血。これが天に昇られたイエスさまの、地上とのつながり方なのだと。
 聖書は、イエスさまが復活なさった後、弟子たちの見ている前で、天に挙げられたと伝えています。 マタイによる福音書の最後の部分をお読みいただきました。イエスさまが示されたガリラヤの山の上、集まったのは11人の弟子たち。ユダがいない11人。不完全な数。さらにはここに至ってなおも疑う者もいたと伝えられています。そんな不完全で、疑り深い弟子たちに、イエスさまは近寄ってくださる。「天地の一切の権能」を授かった方。本来ならば、このように不完全な者たちからは遠く隔たっているはずの方。その方が、この不完全な者たちを、この世界に派遣されるというのが、この個所です。決して無理に欠けを埋めようとされない。無理に傷を癒そうとされない。欠けのあるそのままで、遣わされる。「すべての民を弟子にしなさい、バプテスマを授けなさい」と。「弟子」というのは、イエスさまの場合、上から教えをたれて、従わせるというものではないと思います。イエスさまがなさったそのように、共に歩む仲間、つながり、愛することを確認しながら、イエスさまと神さまの愛を常に覚えながら共に生きる仲間。そういった人たちのつながりを、世界中の人たちと共にしなさいと言う意味です。そうして共に新たにされて、バプテスマに与っていきなさいと。その業に、イエスさまも最後まで共にいてくださるという約束が示されています。
 使徒言行録を合わせてお読みいただきました。イエスさまが昇天された直後の弟子たちの様子が語られています。11人の不完全な弟子たちと、復活を目撃した女性の弟子たち、そしてイエスさまの家族と共にいて、「ひたすら祈る」ことをしていたといいます。そしてさらには120人ほどの弟子たちが集まっていた。その中で、ペトロがこれからなすべきことについて語り始めます。一つには、自分達の現実を確認すること。もう一つはその現実を見据えて、新たな働きの為の道筋に備えること。
その現実とは、「仲間の一人」が欠けてしまったことです。イスカリオテのユダ。彼が「裏切り」という最も痛ましい、ありえない形で失われてしまった。マタイ福音書によれば、イエスさまを裏切ったことを後悔し、報酬の銀貨を投げ捨て、首を吊って自死してしまったと。使徒言行録のこの個所ではもっとおぞましい表現になっている。彼が不正を得て買った土地は「血の土地」と呼ばれるようになってしまった。アケルダマ。マタイではこの土地は、神殿の長老たちが買ったことになっています。どちらが事実なのかはわかりません。けれど、この世の力によって、関係性が歪められ、魂が傷つき、裏切りの思いに駆り立てられた人がいたこと、その罪を悔い死んでしまった人がいたことは事実。
 ペトロはこの死んでしまった人を「仲間の一人」と呼びます。彼を責めたい気持ちももちろんあったでしょう。けれども自分達もまた、イエスさまを見捨てて逃げてしまった。自分達もユダに連なるもの、一歩間違えればユダと同じ運命をたどることになっていたであろうことを十分に自覚していたのです。
 自分達11人もまた、「血の土地」アケルダマに連なるもの。しかしイエスさまは、その土地から脱却させて下さるかのように、弟子たちに使命をお与えになった。わたしたちは新たに歩みださなければならない、歩みだすことができる。そう希望を与えられて、歩みだそう、そのようにペトロは残された仲間に語り掛けたのです。
 そうして、ユダに代わって、職務を、イエスさまにゆだねられた勤めを果たす人を選び出した。くじ引きで選ぶのは当時は、これが神さまのみ旨を問う方法だったからです。祈りの中でくじが行われ、祈りの中で、マティアが選ばれました。こうして不完全だった11が12になり、新たな勤めへの備えが成されたのです。
 この「血の土地」は今も、地上にあります。もはや「そこに住む者はいなくなるように」(使徒1章20節)と願われている土地。わたしたちはこの土地から本当に逃れられているでしょうか。弟子たちはこの時、本当に逃れる事ができていたのでしょうか。この土地に人を結びつけ、縛り付けようとする力は今も働いています。
 天にあるイエスさまは、そのことを見過ごしにされない。十字架の出来事は今も続いている。広島の聖堂のキリスト像が現わすように、血を流しつつ、天におられながらも地上とつながっていてくださっているのです。まさに天と地の狭間にあって、「共におられる神=インマヌエル」の力がわたしたちには働いているのです。そのことを大切に受け止め、神の御国が来るその時を望みつつ、歩んで行きたいと願います。