6月11日(日) 聖霊降臨節第3主日礼拝

「御国の食卓に招かれる」 三吉小祈牧師
聖書:ルカによる福音書14章15~24節、使徒言行録2章37~47節

(←写真はこども園の花の日礼拝で飾られた花々)


 ルカによる福音書14章からお読みいただきました。「盛大な宴会」のたとえ話。これを通してイエスさまは、人を人と思わないようなことを続けていれば、神の国の食卓に預かることはできないよ、と仰っています。当時の社会には身分制度が厳然としてありました。そうした中で、宴会の席、共に食事を囲む席は、身分の高い人(力を持った人)とつながり、自分の地位を確かなものにしようとする政治的な場所となっていました。そのような席上では、自分にとって邪魔な者を末席に追い落とし、蔑むといったことが行われていました。そういった在り方に対して、イエスさまははっきりとNOと言われたのです。神さまはこの世のことをしっかり見ておられる。この世のことと、神さまのみ国はつながってるよ、このたとえ話を通して、それを伝えられたのです。

 たとえ話を見ていきましょう。ある人が「盛大な宴会」を計画して、大勢の人を招いた。これは先に申しました、身分社会の中で有力な人とのつながりを作るための食事会です。招待をして、行くと返事をもらってから、来る人数を確定して食卓の準備をする。当時も今も同じです。しかし、昔の時代の方が大変ですね。冷蔵庫のない時代ですから、一度料理をしたら、保存できない。その日の内に食べきってしまわないといけない。大勢の人を呼んで、返事をもらったのでしょうから、おそらく子牛一頭は屠ったでしょう。そうして準備が整って、「おいでください」と招待したお客たちに呼びかけた。彼らは道義上、立派な食卓を無駄にしないためにも、来る義務があります。ところが、「皆、一緒に断り始めた」。皆来ないっていうんですね。ドタキャン。「一緒に」は直訳すると「同じ声で」。皆で一致して、ドタキャンした。これは緊急の用事ができたからやむを得ないなんて、かわいい理由ではない。何かとても作為的なものを感じるニュアンスです。ようはこの主人に対して、皆でイジメをしたわけです。皆で最大限に侮辱した。あんたはわたしたちを仲間と思って招待したかもしれないけど、わたしたちはそうは思ってないよ、という痛烈なメッセージをこの主人に対して送ったわけです。「畑を見に行かなければならない」とか「買った牛を見に行かなければならない」「妻を迎えたばかりだから」なんていうのは理由にもなってません。それらは前々から計画して行わなければいけないようなことばかりです。招待された時にはわかってたはず。断るなら招待された時に断ればよかったのです。

 このようなことは、現実の世界でも頻繁に行われていたのでしょう。ザアカイのような「徴税人」がここでいう「主人」の立場だったのかもしれません。「税を集める」というある意味「汚い」方法で富を築いた。そのため蔑まれ、仲間外れにされた。生きるためにそうする他なかったのに、そのために共同体から排除される、そのような理不尽が、現実にも度々起こっていたと考えられます。
 たとえ話の中では、そうした仕打ちを受けた主人は怒ります。当然です。しかしたくさん準備された食事をどうするか。無駄にしてしまうのか。彼は僕に命じて、困窮した人々、ハンディを負った人々を招きます。「無理にでも」ありますが、それには理由があります。身分社会の中で、階級の違う人の家に入ってはいけないという暗黙のルールがあったからです。でも宴会を断った金持ちたちとは違って、彼らには必要な食事のはず。だから無理にでも連れて来いといったのです。食べてもらうことが必要な人がいて、食べることが必要な人がいる。そこには何の駆け引きも、差別もない。困窮している人々を憐れんでそうするというのでもない。ウィンウィンの関係性です。互いに必要があって支え合える関係性が成り立っている。そこに神の国があるよ、イエスさまはそう仰っている。
 もはや自分とはなんの関りもないと思っていた人々。むしろかかわるのを嫌がっていた人々。そういった人たちと、互いに認め合えた時に、別のものが生まれる。新しい命、新しい豊かさが生まれるよ。最初から人を人と思わない人々は、その「神の国の食卓」には入れないよ。そういうお話です。
 このたとえを聞いた人々は、おそらくイエス様が「罪びと」と呼ばれていた「徴税人」たちと食事をされたことを思い起こしたのではないでしょうか。そうしてこの主人が、困窮していた人々と共に、あたたかな食卓を囲んだと想像した人は少なくないのではないでしょうか。そう願う人々は、イエス様の周りに決して少なくなかったはずなのです。
 現代でも、人と人とも思わない心を増長させ、差別的な言動を繰り返す人々が多くいます。それが政治を担っている人々の中にも見受けられるのが非常に残念だし、腹立たしいことです。「出入国管理及び難民認定法案」いわゆる「入管法」。さまざまな問題が明らかになり、法を成立させる根拠となる「立法事実」ももはやないといわれる中、政府はこの法案を国会で通してしまいました。ご存じの通り、日本は難民認定率が1%にも満たない状況です。本来ならば難民を保護し、難民の命を守り、差別を禁止する法律ができてしかるべきところなのです。けれど、それと真反対の法律を通してしまった。3回難民認定をした人を強制的に本国へ帰すという法律。死刑のボタンを押すようなものだと非難されています。先週までご署名いただいた難民認定を求めている方も、ますます死の危険に陥らされることになってしまいました。施行まで1年あります。支援者たちの間では、何とかその施行をストップさせたい、この法案を廃止に持っていきたいと話し合われています。そして難民を実質的に保護する法律、差別を禁止する法律を実現させて、この法律を無効化させたいとも話しています。絶対に許してはならないのです。わたしたちはこの人たちの手を離してはならないのです。死なせてはならないのです。これはキリスト教会にとっても大切な課題です。
 使徒言行録からお読みいただきました。人々はペトロの話を聞いて「大いに心を打たれた」とあります。直訳は「心をえぐられた」。イエス様が、本来なら高い地位にあってもおかしくないのに、それを放棄され、人々を愛され死なれた、ということが伝わったからです。こころを深くえぐられるぐらい、そのことに気づかされた。「何をなすべきでしょうか」と問う彼らにペトロは「悔い改めなさい」と勧めます。「悔い改める」とは「方向を転換して神様に向き合うこと」を指します。救いの約束はすべての人のためにあるのだから、と、その救いを与えてくださる神様に、イエス様に向き直りなさい、と言っているのです。そう「すべての人に」救いはある。わたしたちにも、わたしたちの身近な人たちにも、そうして身近でない人たち、遠くにいてわたしたちとは関りがないと思っていた人にも、与えられている、と。神さまはすべての人を招いています。わたしたちは、わたしたちの悪から救われる、「救われなさい」とペトロは励ましたとあります。そうして教会の交わりが始まりました。すべてのものを分かち合い、誰が名誉ある立場だとか競わなくていい関係性。たとえ話で語られたような、一人一人が互いに必要を満たし合う関係性。そこに神様が働いておられたことが証されています。「主は救われる人々を日々仲間に加えてくださった」
 わたしたちもまたこの食卓に招かれています。その豊かな恵みを受けています。その恵みを受けて、さらに遠くへ、関りがないと思い込んでいた人のところへ進んでいきたいと願います。