6月18日(日)聖霊降臨節第4主日

「わたしたちに与えられた豊かさ」 三吉小祈牧師
申命記8章11~20節;使徒言行録4章5~12節

 使徒言行録4章から。ペトロとヨハネが、ユダヤの指導者たちから尋問を受けるその場で、堂々とイエス・キリストの十字架と復活を証した、そのような箇所です。12節は私たちの心に深く刻み付けられねばなりません――「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
 そう、もはやわたしたちは、ユダヤ人だろうが、日本人だろうが、インドネシア人だろうが、同じ名による救いを受けているのです。わたしたちにはこの名前しかない。十字架につけられ、なお復活したこの方こそ、わたしたちの救いです。

 ペトロはこのイエスについて証ししました。あなたがたはイエスを亡き者にし、そしてわたしたち弟子の力を奪い、死んだも同然にした。けれど、イエスは復活された。イエス――この小さくされ、ないものにされた方は、よみがえった。そしてわたしたち弟子も、あなたたちによって死んだようにされたけれども、神さまによって、復活のイエスによって、またよみがえらされたのだ。わたしたちは今、イエスと共に生きている。生きて、ここに立っている。その救いを、今ここに一緒に立っている、この癒された人と分かち合った。それだけだよ。それの何が悪いの?
 そうここには、ペトロとヨハネの他に、もう一人真ん中に立たされていたのです。足が悪くて、物乞いをするほか生活の手段がなく、神殿の前で座っていた人。使徒言行録3章にそのことが記されています。この人も一緒に生きて行けるように、一緒に神さまを礼拝できるように、ペトロとヨハネが声をかけ、イエスさまの力を分かち合って癒した。それに驚いた人々が集まって、ペトロとヨハネの話を聞いた。そしてさらに救われる人が増えた。それで、指導者たちが、二人を捕え、監禁した、という次第。
 ここで、いまいちはっきりしないのが、この癒された人は、いつからペトロとヨハネと一緒にいたのかということです。4節では二人が捕らえられたとあります。ギリシア語の原文では、ここは「二人」ではなく「彼ら」。ということは、3人だった可能性もある。そして実際にこの尋問の場所に、この癒された人がいたことも、ペトロの言葉や後の14節からもわかる。けど、その言葉が出てくるまで、この人が一緒にいたってことは一言も出てこない。何故なのでしょうか。
 指導者たちには、この癒された人が見えてなかったんです。ペトロとヨハネが大勢の人を集めたことばかりに気がいって、自分たちの教えとは違うことを言ってるということばかりに目が行って、なんでそういうことになったかってことは見えてなかったのです。その彼らの目線を借りて使徒言行録は話を進めている。そうしてこの癒された人が、力ある人からはない者とされていることを示したのだと思います。
 そして、それに抵抗してペトロとヨハネは、イエスさまのことを証すると同時に、この人もここにいるってことを証したのです。この人も、イエスさまと同じように、社会からいらないものとして生きざるを得なかった。けれどイエスさまの力がこの人をよみがえらされたんですよ。この人とわたしたちは同じですよ。そうして神さまを賛美し礼拝できるようになったんです。あなたたちは神殿の指導者としてこれを喜ぶべきなのではないですか、と。
 そう、いくら指導者たちが見ていなくても、ペトロとヨハネ、そして名もなき癒された人はここにいたのです。十字架と復活のイエスによって、生かされ、共に生きたのです。わたしたちはここにいる、生きているんだと声高らかに宣言したのです。3人はしっかりと手をつないでいた。そのつないだ手を離すことは、いくらあなたたちに力があってもできないよ、神さまがつないでくださった手だからと、はっきりと証したのです。
 併せて申命記からお読みいただきました。モーセがイスラエルの民に語った、最後の言葉、それが申命記です。8章11節から、あなたの神、主を忘れるな、という言葉が繰り返されます。「主」というのは、本来、神様のお名前が記されている箇所です。「ヤハウェ」というお名前。「主の名をみだりに唱えてはならない」とする十戒の第4戒に従って、このお名前が出てくるところはすべて「主」と読み替えるというユダヤ教の習慣。それに倣って日本語の聖書もそうしています。「ヤハウェ」という聖なるお名前は、「命・存在」を意味する言葉に由来すると言われています。そのため、この「ヤハウェ」を「命の神」と訳す研究者もいて、わたしもこの訳に賛成です。「あなたの神、命の神を忘れるな」。それは、冷たい金属や薪にするような木でできた、命のない像ではない、今まさに生きて働いておられる方を忘れてはならないという教えです。その方はどこで働いておられるか。私たちの間、わたしたちの真ん中で、です。互いに遠くさせられ、見えなくさせられているわたしたち。それが、滅びに向かってではなく、ともに喜んで生きることができるように、「いのちの神さま」は生かしてくださる。必要なものを備えてくださる。その神さまの働きを見、互いの「命」をみなさい、そのように言われているように思うのです。
 昨日、改悪入管法に反対する千葉支区の緊急集会が開かれました。講師の先生が最後にマタイ福音書の7章のみ言葉を取り上げられました。「求めなさい」「門をたたきなさい」と言われている箇所です。門をたたくのは誰?求めているのは誰?開けなきゃいけないのは誰?と問われました。わたしたちはいつの間にか、開ける側、門を閉めてしまった側に立たされているのではないかと。でも実際はそうではなくて、わたしたちも少数の側のはず。イエスさまと共に生きるなら。
 イエス様も小さくされ、ない者にされた側です。だけどよみがえった方。イエス様も扉をたたき続けたのです、この世の「少数者」と呼ばれる人々――外国籍の方々、難民の方々と共に。あるいは障碍者の方々、LGBTQの方々と共に。そしてわたしたちも一緒にたたき続けているのです。わたしたちはここにいる。少数者だけど一緒に神様を賛美し、喜びをもって集まっていると、わたしたちは言い続けたいし、言い続けることを神様から許され、励まされている。それが私たちに与えられてる豊かさなのです。
 イエスさまと、皆と、共に生きよう。一緒に神様を賛美する道を模索しながら歩んでいきたい、そう願います。