6月25日(日) 聖霊降臨節第5主日礼拝

「『銀貨』を探す神」三吉小祈牧師
使徒言行録8章26~38節、ルカ福音書15章8~10節, 新約136

 ルカ福音書から、なくした銀貨のたとえ話。有名な見失った羊のたとえ話とペアになるお話として、ルカによる福音書では書かれています。意志のない「銀貨」をたとえ話で用いることで、意図せず神さまから離れてしまう場合もあることを、イエスさまは仰りたかったのではないか、そんな風に思います。「罪人が悔い改める」ことと書かれていますが、何か、一人の人間の責任だけでなく、神さまとの間を引き離すものが、悪いものがある。そういった「悪」全体に巻き込まれてしまった人を、福音書は「罪人」と呼んでいるのでしょうか。これらのたとえ話はそういった疑問を呈しているように思います。
 「銀貨」を失くしたのは女性です。これは当時、家の家計を管理し、切りまわしていたのは女性だったからです。10枚のドラクメ銀貨の内、1枚を失くしてしまった。ドラクメ銀貨1枚は、1日~2日分の賃金に相当します。10日分、あるいは20日分の収入。決して安くはありません。この家の全財産だったと言える。もし彼女の家が農民だったとしたら、普段の生活はほぼ自給自足で成り立っていたでしょう。現金収入を得ることは稀だったかもしれません。そういう意味では、彼女にとって1日分の賃金以上の価値が一枚の銀貨にあったかもしれない。もしもの時に、家族の命を支えるもの。そういう意味で10枚、大切に取っておかれたのです。
たった1枚でも、家族全員の命を支える、大切な宝。だから、必死に捜します。当時の家は窓が一つしかないのがあたりまえでした。だから昼間でもランプを灯して捜します。石を敷き詰めたであろう床。その隙間に銀貨が落ちていないか、隙間の土をきれいに掃き清める。そうして念入りに、一生懸命に捜す。そうして見つかったら、近所の友達を集めて、「一緒に喜んでください」とお祝いをするのです。
 イエスさまは、みんなも大切なものを失くしたらそうするでしょう?そう問いかけておられます。聞いていた人たちの中には身に覚えのある人もいたかもしれません。そうして言われました、神さまもおんなじだよって。神さまにとって、あなたがたが失われたら、いのちにもかかわるぐらい、あなたがたは大切なんだって。永遠の神さまに「命にかかわること」という表現はふさわしくないかもしれませんが、でも確かに福音書はそう表現しています。

そしてもう一つ、言えることは、最初から99匹と1匹、10枚と1枚に分かれていたわけではないということです。正しい人と罪人に分かれてなんかいなかった。元は一つだったんです。100匹は100匹、10枚は10枚、神さまの大切な宝として、一つのものだったのです。あいつは「罪人」だから、何の価値もないと非難することも、「正しい人」にはわからないよ、と嘆く必要もない。皆がありのままで排除されることのない世界が神さまのみもとにはあるということ。そこへ帰っておいで。一緒にあることを、喜ぼう。そう呼びかけられているのです。
 使徒言行録8章から合わせてお読みいただきました。迫害を受けて、「罪人」とされて散らされた、最初期のキリスト者たち。その危機的な状況の中でも、イエスの福音は伝えられ、救われる魂があったと告げています。
 8章冒頭、天使はフィリポに「寂しい道」を行け、と告げます。エルサレムからガザに至る道は砂漠です。人一人通らないような道。そのような道で、フィリポはエチオピアの宦官に出会いました。当時のエチオピアは豊かな国。その国の女王に仕えていたということですから、彼自身も大きな権威と権力を持った人だということができます。そのような力を持った人が、神を求め、エルサレムに来ていた。その帰りに、この寂しい道を通っていた。誰もいない、寂しい道。なぜこの道を?他に道はなかったのでしょうか。エチオピアに帰るにはこれが近道だったのでしょうか。今日の福音書と合わせて読むと、象徴的な意味もあるように思えてきます。神さまを求めながらも、遠く離れた場所に置かれてしまった1匹の羊、一枚の銀貨。彼が歩く道は、その孤独さと悲しみを表しています。けれど、「道」ですから、どこかに通じている。誰かに通じている。彼は神さまを求めてその道を歩んでいたのです。
 聖霊はフィリポに、彼に「寄り添って行け」と命じました。一人道行くあの人に寄り添って行け。神さまはこのためにフィリポを行かせたのだと、ここでわかります。寄り添って共に歩き、思いを聞く。何をさ迷っているのか、何があなたを神さまから遠くさせているのか、何がわからないのか。どうか聞かせて。
 状況から言えば、フィリポの方が悲惨なんです。迫害のためにエルサレムにいれなくなって、帰る場所がないわけですから。けれど主の天使が、聖霊が彼と共に働いた。だから彼は寂しい道を何も言わずにゆくことができた。
 そんなフィリポと力ある宦官とを結びつけたのは、聖書のみ言葉でした。イザヤ書53章。イエスさまについて預言した個所です。しかし、そうとは知らずに読めば、恐ろしい個所です。誰がこのような目にあうのか。権力を振るっている自分自身に下される罰なのか、とこのエチオピア人が考えたとしても不思議ではありません。
 フィリポは、この個所について、イエスの福音を告げ知らせたと記されています。この預言は、主イエスの十字架の死を預言したものだと伝えたのです。その預言は成就し、イエスは殺された。しかし、イエスは復活し、生きておられる。生きて聖霊を通して働いてくださっている。誰も死なせないために。だれも「罪人」として滅びないために。神さまはあなたを探し、わたしを遣わしたのですよ。そう伝えたのです。
 そうして二人は泉にたどり着いた。砂漠の中のオアシス。人も集まるところ。もうエチオピアの彼は1人ではない。「なんの妨げがありましょうか。」彼はフィリポと共に水に入り、洗礼を受けます。新しくされた彼は喜びに溢れていた。不思議な仕方でフィリポはいなくなりましたけれど、これはエチオピアの彼がもう大丈夫、というしるしなのかもしれません。4世紀に教会の歴史を記したエウセビオスは、この彼はエチオピアに帰って、福音を延べ伝えたと書いています。自分の受けた喜びを国の人たちと分かち合ったのです。
 喜び。神さまの喜びとわたしたちの喜びと。神さまがわたしたちをかけがえのない宝物としてくださり、探し求めてくださっている。わたしたちはどんな時でも、ひとりひとり大切な存在なんだという喜び。それは多くの人と分かち合うべき喜びなんだと言われているように思います。わたしたちは、よいもの、悪いものに分けられていい存在じゃない。初めから神さまのみもとにあって一つの良いもの、宝物だったんだってこと。
このような喜びを持つわたしたちを、分断しようとする力は今もなお働いています。それを主と共に斥けて、「私と一緒に喜んでください」、一緒に神さまのところに行こう、多くの人に呼び掛けられる共同体であれたらと願います。