7月16日(日)聖霊降臨節第8主日

7月16日礼拝メッセージ 「嘆きと痛みの中で神を求める」三吉小祈牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節、ルカによる福音書7章36~50節

人が経験する苦しみの中で、最も人を苦しめる者は、誰ともつながることのできない孤独だと言われます。自分の価値が低められ、もはや何も訴えてはいけない、聴くことも口を開くこともできない状態になってしまった――そのことが、今日ご一緒に交読した、詩編38編の中で歌われています。それでも神さまは、わたしの主は、わたしを見捨てない――その確かな信仰があったからこそ、歌い手のダビデは苦しみを乗り越えて、戦っていくことができたのでしょう。何よりも、結局はダビデの力を必要としていたイスラエルの民の存在があった。彼はその民にも支えられ、困難な道のりを神と共に歩んでいくことができたのです。 ダビデ以上に、周囲の人から否定され、敵視され、だれともつながることのできない孤独を負わされていた人は、昔も今も、数多くいます。

ルカ福音書からお読みいただきました。3人の人が登場します。一人はイエスさま、もう一人はシモンと呼ばれるファリサイ派の人、そして「罪深い女」と呼ばれる名を知らされていない女性。名前がない。知らされていない――誰も彼女の名前を知らなかったのではないでしょうか。名前を知るほどに、彼女と関わっていなかったのではないでしょうか、彼女が犯したとされる「罪」のゆえに。あるいは、ルカ福音書の著者があえて名を記さなかったのかもしれない。彼女の名誉のために。彼女が赦されたはずの罪のために、後の時代の人が偏見を持ち、糾弾し、あるいは傲慢な同情を寄せないために。そうだとすると、この彼女は、イエスさまの弟子として、ルカ福音書の読者によく知られていた人だったのかもしれない。涙をもって、イエスさまをもてなし、赦された喜びを表した人。その後、強く確かに神さまを証しする人として立てられたとしても不思議ではありません。
 どちらだったのかわかりません。どちらも可能性があります。名前が知られていない、知らせることができない――それだけ、女性の犯す「罪」というものは、人々が偏見を持ち、当事者を忌み嫌い、それでいて好奇心を煽るものでした。いわゆる「売春」という行為。相手がいなければ成り立たない仕事です。それでも糾弾されるのは何故か女性のみ。律法では姦淫を犯した双方が罪とされるのに、ここでは、ここでも、「罪深い」とされるのは女性。そのような仕事をするしかないような社会の在り方とか、そうした女性を搾取し弄ぶ男性たちのことは何も言われないのです。
 そういう意味では、地位のあったダビデよりも、この女性の苦しみは深かっただろうと思うのです。社会が悪い、男たちが悪いと訴える声をすら奪われ、ただひたすら生きていく日々だった。そのようなときにイエスさまに出会ったのです。
 イエスさまは、人々が忌み嫌い、遠ざけていた人々のところへ赴かれました。徴税人と呼ばれる人、娼婦と呼ばれる人、「既定の病」と呼ばれるものを背負った人。神さまはあなたがたに罰を与えたのではないと。あなたがたをほかの人と変わらず愛している。それを伝えてくださり、そのしるしとして、彼女の友となって、孤独を癒し、救ってくださったのです。それに出会った彼女も、だからこそここで、その喜びと感謝を表したのだろうと思います。
 一方のシモンと呼ばれるファリサイ派の人。イエスさまを食事に招くぐらいですから、イエスさまの教えに感じるところがあったのでしょう。けれど、イエスさまへのもてなしを欠いていたと言われています。その代わりを彼女がしてくれたのだ、と(7章44~46節)。
 足を洗う水を提供するということは、徒歩で移動するのが常であった当時、その疲れを癒す意図がありました。そうして客の労をねぎらい、もてなすことが、言ってみれば常識でした。そして抱擁し、キスをすることも、友人としての親愛の情を表すものとして、大切に行われてきたことでした。シモンはイエスさまをもてなすことも、イエスさまに親愛の情を表すこともしなかった。なぜでしょう。やはりシモンはイエスさまの教えに反対し、イエスさまを仲間、友だとは思っていなかったということなのでしょうか。ただ、あちこちの村や町を行き歩いて疲れているイエスさま一向に、食事ぐらい提供してやってもよいだろう、そういうことだったのだろうと思われます。貧しい者に施しをする、それもまた律法の義務としてあげられていますから。けれど、それは対等の立場で行われるものではなかった。シモンにとってイエスさまは憐みの対象であり、愛すべき友、敬愛すべき客ではなかったのです。
 だから、彼女、「罪深い女性」と呼ばれる彼女は涙を流したのではないでしょうか。「罪深い者」ともつながり、愛してくださった方が拒絶されている。ならば、自分がもてなそうと、イエスさまに近づいた。香油を持ってきたのは、イエスさまの傷だらけの足を癒すためです。当時、油は傷を癒し、肌を保護する役割がありました。その足を見て、彼女は涙を流したのではないか。人々のために歩き、労苦した尊い御足。自分を救い、解放してくださった喜びと感謝と共に、彼女は自分もまたイエスさまの歩みに従いゆく決意をも示したのです。イエスさまの愛する友として、イエスさまをもてなす親しい仲間として。ファリサイ派の偉い先生が受け入れないなら、わたしがこの方を受け入れる。この方こそ、大切な友、信ずべき神の子、救い主だとそう宣言したのだと考えます。
 「多く赦された者は多く愛する」――不思議な言葉です。ならば罪を犯すことが多い方がいいのか、そんなへ理屈も生まれてくる。違いますよね。人は誰しも多くの重荷、「罪」を負って生きている存在です。赦されなければ生きていけない。それを自分で知っているかどうかなのだろうと思います。
この彼女自身、自らの重荷を「罪」として理解していただろうと思います。けれどそれは自ら進んで犯した「罪」ではなかった。生きていくためにそうする他なかった。そうすることを許す悪が彼女の周囲にあった。彼女がその「罪」をその重荷に押しつぶされていいわけがない。孤独のうちに死んでいいわけではない。その必死の闘いをイエスさまがともにしてくださってる。だからこそ彼女はイエスさまを愛したのです。
 わたしたちも同じではないでしょうか。彼女ほどではないにせよ、日々の労苦、悩み、孤独感がある中で、この共同体に招かれている。豊かなつながりが与えられている。互いに赦しあって歩む喜びを知っている。だからこそ、わたしたちはこの交わりをもっともっと、広げ、つなげていきたいと願うのです。
 パウロの言葉から読みました。自分を吟味する(6章4節)。自分がいかに赦され、愛されているかを知ることが勧められているように思います。そうして、福音書の彼女のように重荷を負っている人を追い詰めることがないように、自らもまた重荷を負った存在であることを自覚しなさい、と。そうしてその痛みと嘆きとを互いに担い、ともに神の救いを助け求める。それが、わたしたちが行なうべき「善」、善き業なのだろうと思います。
 孤独の中にあっても誰かとつながっている。誰かが祈ってくれている。何よりも神様からの救いがある。それだけで、心が自由になります。そのつながりの中にこそ神さまが働いてくださっていることを信じましょう。共に苦しみも喜びも分かち合い、神様を賛美する――そのことを常に為しつつ、新たな一週間も共に歩んでいきたいと願います。