7月2日(日)聖霊降臨節第6主日・創立記念礼拝

「教会の基礎にあるもの」  三吉小祈牧師
(ルツ記1章15~18節;使徒言行録11章11~18節)

 「数多(さわ)の争い み民を裂き 世人そしりて悩むれども 神は絶えなる祈りを聞き 
涙に変えて歌を賜ん」

54年版讃美歌の191番3節の歌詞です。先ほど歌ったものよりも、こちらの方がなじみのある方も多いのでは。美しい歌詞、そしてサミュエル・S・ウェスレーの美しい曲。日本でも長く愛されてきた讃美歌です。
 しかしよくよく考えてみると、ここで引き裂かれる「み民」とは誰のことを指しているのか。「世人」からそしられ、悩む者とは誰のことを指しているのか。涙を歌に変えたいのは誰なのか。
 答えは私たちの間にあるように思います。引き裂かれた民、そしられる民、悩み苦しむ民とは私たち自身のことであり、また私たち教会の外にいる人々のことでもあります。皆が皆、自覚しているかしていないかに関わらず、信仰者であるか、そうではないかに関わらず、神さまから救われ、贖われること、涙が拭われ、共に歌うことができる日を待ち望んでいる。
 世界でもこの国でも、そうした共通の思いを分裂させようとする大きな力が働いています。いろいろな人たちを「一つ」にまとめあげ、その「一つ」であることにそぐわないもの、従わないものは「罪である」と定めて排除する。そうして「正しい人」だけを集めてまとまろうとする。そのような「正しさ」ほど恐ろしいものはありません。

神さまは、教会の始まりの日、聖霊を弟子たちに降されたペンテコステの日、様々な言語で神さまからの福音を語り、受け取る力を与えてくださいました。大きな力で一様に染めてしまうのではなく、一人一人の在り様に寄り添い、その一人一人の悩み苦しみから救い出してくださる。そのことが示されている。その聖霊の導きによって、私たちの教会もまた、様々な人々と一緒に135年の歩みをなしてきたのです。
 今日は旧約聖書ルツ記から、まずお読みいただきました。ある人が飢饉を逃れて、モアブへと避難した。妻と二人の息子も一緒だという。モアブは、旧約聖書ではイスラエル民族の敵、決して交わってはならない民族でした。申命記の23章には、モアブとアンモンは神の会衆に入れない、とはっきり書いてあります。飢饉のときに、そのような民の元に行く。そんな彼、エリメレクのことを、故郷の人々は良く思わなかったかもしれません。それでもエリメレクは妻のナオミ、二人の息子と共に旅に出たのです。生きるためです。生きるために人は国境を越えていきます。受け入れられるかどうかは二の次。とにかく命をつなぐ可能性が少しでも高い場所へと赴くのです。そこで、エリメレクと家族は移り住み、二人の息子はそれぞれ妻を迎えます。そのように生きることができたということは、彼らが土地の人々に受け入れられたことを表しています。結婚というのは今以上に、家と家、部族と部族を結び付けるものでしたから。
 そうして幸せに暮らすことができていたのでしょう。しかし、エリメレクは亡くなり、二人の息子も子どもを残さないまま亡くなり、一家は女性だけになってしまいました。女性だけで生きるのは厳しい時代。ベツレヘムへ帰ることを決意したナオミに、息子の妻の一人ルツは、彼女についていこうとします。モアブの家へ帰そうとするナオミの言葉を拒否し、ルツはナオミから離れない、と決意を表明します。その決意の中に、ルツがナオミの家族と紡いできた時間の豊かさがうかがい知れます。イスラエルの神というのがどのような方か、この時のルツに理解できていたかどうかはわかりません。けれど夫とその母に出会わせていただいた。そこで共に歩んできた。たとえ夫が失われようと、その紡いだ愛が無くなるわけではない。だからどうか行かせてほしい、ということなのだろうと思います。その共にいた歳月と愛にだけ、より頼んで、ルツはナオミについていきました。イスラエルの父祖アブラハムのように、約束と祝福が与えられたわけでもない。それでもついていったのは、ただただ、ナオミを愛し、彼女に忠実でいようと決めたから。そのたった一人の女性の営みが、後にイスラエルの民に重要な転機をもたらす一人の人につながっていった。ルツ記はそのように告げています。イスラエルの歴史、救いの歴史は、そうした一人の女性の愛と誠によって、始まった。しかもその女性は、あなたがたが嫌っていたモアブの女性ですよ――ルツ記はある意味、そのようにして他の書物の主張、モアブは滅ぶべきとする主張に、挑戦しているのです。
 国を超えて、民族を超えて、命をつないでいく。愛と誠を交わし合う。それは新約聖書でこそ、大切なこととして言われていることです。
 使徒言行録10~11章の物語は、キリストの福音を携えた使徒たちでさえ、異邦人との壁を乗り越えることがいかに困難であったかということを示しています。ヤッファでペトロが観た神さまの幻。律法で食べてはいけないとされている食べ物を食べよ、と命じられる。ペトロは拒否します。ユダヤ人にとっては命と魂に係わる問題でした。教えを捨てて、皇帝を崇拝し、完全にローマ帝国に従えとの圧力は常に彼らにありました。ユダヤ人は長きに渡る抵抗によって、それを拒否し、自分たちの信仰を守る自由を得てきたのです。教えを捨てることは、そのまま神さまを捨て、ローマの支配に従うことを意味していたのです。だからその拒否には強い決意があります。
 しかし、神さまは、ご自身が清いと言ったものを清くないなどと言ってはならない、と言われました。それは異邦人を異邦人として一括りにしてはならない、ということです。一人のローマ人にローマ帝国そのものを見てはならないということです。ローマ人であっても、その支配にある意味で抵抗し、救いを求めてあえいでいる人がいる。その人のところへ行け。わたしが選び、導いた人だから、と。
 その人の名はコルネリウス。神を畏れるローマの百人隊長だった。彼がなにゆえに神を求めるようになったか、それについては書かいません。ただ神さまが彼の祈りを聞き、その導きによって、ペトロに出会うことができた。二人は語り合い、共に変えられるべきであることを認めます。ペトロは異邦人である彼を受け入れることへと、コルネリウスは彼の信じるイエス・キリストを受け入れことへと、新たに創り変えられるべきことを共に知ったのです。
 聖霊が豊かに降り、コルネリウスは洗礼を受けます。ペトロもまた変えられた瞬間です。わたしとあなた、これまでは全く分けられていたけれど、主イエスの霊が力が、結び合わせてくださった。その喜びを分かち合った瞬間です。
 今日の個所は、未だかたくなな心のままでいるエルサレムの教会の使徒たちに、ペトロが事の次第を報告する個所です。ペトロはすべてのことが、自分の意志ではなく、神さまの導きによって行われたことを語ります。神の霊はペトロに「ためらわないで一緒に行きなさい」と告げました。「ためらわないで」というのは、言語では「自分で識別しない/判断しない」「区別/差別しない」という意味です。
 わたしたちは、昔も今も、同じように呼びかけられています。誰も分け隔てせずに、神さまは招いておられる。分断しようとするものの力を乗り越えて、神さまの霊は働いている。わたしたちに不可能なことはありません。わたしたちも「ためらわずに」まだ見ぬ人々のところへ出かけていき、136年に向けて、新たな1年を刻んでゆきたいと思います。