7月9日(日)聖霊降臨節第7主日

7月9日礼拝メッセージ 「涙を拭われる主」 三吉小祈牧師

聖書:エレミヤ書38章1~13節、ルカによる福音書7章11~18節

 今朝はエレミヤ書から。エレミヤ書には預言者エレミヤが語った預言が記されていますが、その預言の言葉の間、間に、エレミヤ自身の嘆きの言葉、苦しみ悲しむ言葉が語られています(10章19~25節、11章18~20節、12章1~6節、14章7~9節、17~22節、15章10~18節、17章14~18節、18章18~23節、20章7~18節)。

 エレミヤが預言者として活動した時代は、ユダ王国の末期、バビロニア帝国によって国が滅び、その民が捕囚となってバビロンに連れていかれる、そのような悲劇の時代でした。その状況下で、エレミヤは、ユダの王宮に反対して、バビロニアに降伏するよう呼びかけます。強大な帝国に対抗する術はなく、それが、ユダが生き残る唯一の道だったからです。そして何より、それが神さまのみ旨だったからです。エレミヤは、そのため迫害され、多くの苦難に出会いました。エレミヤ書の特徴は、その苦しみとエレミヤ自身の嘆きの言葉とを残しているところにあります。その訴えはわたしたちの心に迫ってくるものがある。しかし20章7~18節の告白を最後に、エレミヤは嘆くことをしなくなります。そしてますます、ユダの王宮の罪を糾弾し、王宮の意に反する預言を語るようになります。そして、今日の個所、38章ではついには死刑を求められ、水溜の中に投げ込まれる、ということが起こる。エレミヤはもはや嘆き、訴えることはしません。まるで嘆くことを禁じられたかのように、この個所では一切沈黙している。もはや泣くこともできないのか、と思うほどに。
 合わせてお読みいただいたルカ福音書の7章。イエスさまは息子を失った女性に「泣かなくともよい」と声をかけてくださいました。直訳すると、もっと直接的な表現です。「泣くな」と。イエスさまがそう語られたのは、泣かなくていい理由があるからです。息子は母親の手の中に返されました。けれどエレミヤは? もうこの場面では泣かなくてもよかったのでしょうか? 決してそうではありません。この場面でこそ、助けを求めたかったはずです。苦しみを訴えたかったはずです。
ここで語られているのは、より大きな政治の世界。一人の人の感情や訴えなど、簡単に消されてしまうような世界がここに描き出されている。彼にはまだまだ嘆くこと、訴えなくてはいけないことがあったのです。それを水溜の泥の中に、彼もろとも沈め、聞こうとしない力が働いた。大きな、悲しい罪です。人を語らせない、嘆かせない、言葉を奪う罪。
 けれど、神さまは、エレミヤを救われました。助けの器となったのは、ユダの同胞ではなく、異国から来た宦官でした。エベド・メレクという名は「王の僕」という意味です。おそらく本当の名前ではありません。どのような経緯でユダに来て、ユダの王に仕えているのか、そのことも示されていません。
 ユダの人でもない、通常の男性とも違う、マージナルな立場にいたからこそ、この名もない人は冷静に状況を判断していました。すなわち、エレミヤが罪なく泥の中に沈められ、このままでは死んでしまうこと、もはや都は包囲され、パンが無くなってしまったことです。その判断によって、エレミヤは水溜の中から救われました。以後、エレミヤはエルサレムが滅びる時まで監視の庭に留まったとされています。
 語ることも嘆くことも許されない世界。けれどだからと言って預言者が泣くのをやめたわけではない。表では泣くことはできなくても、心の内では引き裂かれ続け、泣き続けてきたことでしょう、もう泣かなくてもよいその日まで。神さまがその涙を受け止め、共に泣いていてくださったと信じます。
 ルカ福音書。エレミヤ書との違いは、その悲しみを引き起こしたものが、「愛する者の死」だということだと思います。エレミヤが被った暴力は、人が止めようと思えば止めれる。人が止めれば、助けられる。けれど、死は止めることはできません。死は誰にでも訪れる。悲しいけれどわたしたちはそれを受け入れなければなりません。
 それでも受け入れ難いのは、理不尽な死。子どもの死。若い人の死。戦争や災害による死。どうしようもないことはわかっていても、やはり何とかならなかったのか、神さまどうして?という思いがつきまとう。
 イエスさまが出会ってくださったのは、その理不尽な問いの中に落とされた女性。夫を亡くし、ただ一人残された息子もまた亡くしてしまい、今、葬ろうとしている。大勢の人と共に出て来たのは、その葬送の列です。埋葬のために出て行く、まさにそのところでイエスさまが来てくださった。
 そうして言われました。「もう泣かなくともよい」。先ほども申しましたように、原語ではただ一言「泣くな」とあるだけです。「泣くな」。もはや泣く理由がないから。そう仰られて、息子の遺体に近づかれ、彼に触れた。すると、息子はよみがえったのです。イエスさまが、人には決して不可能な、理不尽な死の力を止めてくださったのです。
 なぜなら彼は死んではいけなかったから。お母さんに愛され、必要とされ、大切にされてきた存在だったから。お母さんは泣いてはいけなかったのです。こんな理不尽な死に、絶望に出会ってはいけなかった。イエスさまがその絶望を超えさせてくださった。お母さんに生きる希望をよみがえらせてくださった。息子もお母さんも死んでいい存在ではないこと、神さまによって生きることができる存在であることを示してくださったのです。
 わたしたち誰でも、理不尽なことに耐え忍ばなければならない、なんてことはないはずなんです。確かに現実には、どうしてこんなことが、と思うことが多い。けれどそれは、神さまがお望みになったことではないし、わたしたちが泣くことを放っておかれる方ではない。それがこのイエスさまの業によって示されています。
「偉大な預言者が私たちの間に現れた」「神はその民を顧みてくださった」との人々の信仰告白は真実です。神さまは耐えられない試練をお与えになりません。耐えられないものに出会ったら、それは神さまの御心ではないということです。
 神さまは、イエスさまを通して、わたしたちの涙を拭ってくださる方として現れてくださいました。わたしたちには、この神さまがおられ、イエスさまがおられる。その愛を信じて、いつのときも復活の希望と命が与えられていることを信じて、歩んで行きたい